Essay of morgedal-club

心弾む、野山のスキーの楽しさをお伝えします

日々是口実

スキーツアー、カヤックツアー、そして山登り。日々言い訳、口実を作りながら遊んできた山への想い、海への想いを徒然に書き留めてきたものです。御笑覧下さい。
現在一番面白い事は森林整備、立ち枯れの木の伐採や下草の整理など森が見違えるように生き生きしてくる姿を見る事はとても嬉しいです。そして、一日森の中で過ごす事も至福のひと時とも言えるものです。





私的、テレマークスキー小史

視界を遮るあの峰をどうしても越えてみたい、その向こうに何があるのか、どんな人が住んでいるのか
 私が山に登る理由は、大脳の奥に針の先ほどのこんな想いが片時も離れることがなかったからではないだろうか。そう、もうずっと昔、少年の頃からの想いが。
 昭和31年、10歳、私の故郷は東京都南多摩郡鶴川村。東京都とは名ばかりの田園が広がる美しい村であった。蓮華、菜の花、麦畑、ひばり、水田、柿の実、茅葺の農家、ちょっと目をつむれば色々な風景が色鮮やかに蘇る。多摩丘陵と呼ばれる穏やかな丘に囲まれた小さな村であった。丘陵はリアス式海岸の岬のように低い丘が幾筋となく連なり、多摩川から相模川まで小さな谷地ごとに人々の暮らしがあった。
 昭和30年頃といえば、この小さな村に自動車は、製材所のトラックをいれても10台も無かった。  子どもでさえ2キロや3キロ歩くことはあたりまえで鶴川から多摩川まで舗装もされていない世田谷街道を大人用の自転車に乗って水泳にも行った。電車に乗る機会も年に数回、たった二駅の新原町田のへ行くことも子どもには大きな冒険だった。
 小田急線の新原町田の駅には小田原方向にポイント所があって、その先に鉄さび色の線路が大きく左にカーブして相模原の丘陵の端に消えていった。天気がよければ、丘陵の上に大山や遠く富士さえも眺められ、その先に続いているはずの線路の行く末を心ときめかして空想していた。

 私の山登りは越えて行く旅、人里に帰りつく旅、旅がどんなに辛くても、その旅の終わりには人の暮らしがあってほしい、村から村への旅が一番好きだ。

いざない

tour_2.JPG火打山の山頂を目指して 妙高高原に移り住んで2年目の春、どうしても火打山の山頂から滑ってみたくなり、4月になって閉鎖されたスキー場をつぼ足で登った。この時は山用のスキー用具を持っていなかったので普通のスキー板を担ぎ、ブーツはザックの中に入れての登高であった。出発の時間も遅かったが、三田原山の稜線へ出たのは午後6時、春とは言ってもすぐに日が落ちる。黒沢へ出て茶臼を越え、高谷池ヒュッテへ行く予定であった。

 気温が下がりバリバリのアイスバーンになった三田原山の斜面を慎重にトラバース、すっかり日が落ちた闇の中でのスキーはヘッドランプ程度の明かりではどうにもならない。
 雪面の凹凸や木立に足をとられ何度となく転倒や滑落を繰り返し、ようやく黒沢湿原の平坦へ着いた。

 小屋開けの準備のために黒沢ヒュッテには既に人が入り、湿原の先にぼんやりと灯りが見えたのは午後も10時をまわる時間だった。黒沢から高谷池まではもう1時間もかからない、しかしもうこれ以上先に進む気力もなく、小屋のオーナーの歓待を受け長かった一日の旅装を解いた。
 それからの数日間、黒沢ヒュッテをベースに火打本峰は言うに及ばず黒沢岳の東面、雷鳥平から澄川源頭など春の火打をおおいに楽しんだ。

 1965年頃、僕は東京である山岳会のメンバーになっていた。どう言う訳か、当時の山の会ではスキーは邪道であり、山やは硬派、スキーヤーは軟派の風潮があり、スキーに行ったことが知られると仲間からは冷たい視線を浴びせられたような時代だった。当時、山岳会は一般的に2月に新人募集をし、5月頃までは基礎的な訓練が重点的に行われ、春山合宿を除くと残雪輝くこの時期にあまり活発な山行は行われていなかったような気がする。
 スキーを登山に取り入れることによって行動範囲は広がり、移動速度も飛躍的に速くなる。陽光うららかな春の日差しをいっぱいに受け、残雪に輝く春山は最高に楽しい。高校生の頃から始めた山登りも、仕事の環境や家庭の都合で途中中断の時期もあったが、春の火打山スキー登山によって再び山にのめり込む日々が訪れたのである 。

テレマークスキーとの出会い

僕が妙高高原に移り住んだのは33歳の時、1979年のことだ。スキーは学生の頃にちょっとやっただけ、山好きが嵩じての移住であった。だから妙高に来たばかりの頃はパラレルターンなんてとても出来なかった。それでも、半年もの間、雪の中での生活はいやでもスキーをはかなければならない。こんな環境で3年もたてば誰でもそこそこ滑れるようにはなる。
 そこそこ滑れてしまえば、元々は山や、ゲレンデの中だけでのスキーに我慢のできようはずも無い。ツアー用のクロスカントリースキーを買い込んで、いそいそと誰もいない早春の笹ヶ峰へ出かけて行った。
 眩いばかりの日差しを浴びて、誰もいない雪原で一人スキーを走らせる。小さなザックには握り飯と少し甘めのワイン、アンバランスな至福の一時であった。  

cx_sasagamine.jpg火打山の山頂を目指して 冬の日差しは午後3時ころより一気に蔭り始める。幸せに満ち足りた一人だけの雪の旅を切り上げなければならない。
 足取りも軽く、軽快に妙高―小谷線の峰越し林道を飛ばし多くのスキーヤーで賑わう妙高国際スキー場に出たのは午後4時を少し回っていた。そして、長い七転八倒の末、麓の駐車場に着いた頃はもうすっかり日が暮れていた。ようするにクロスカントリースキーでゲレンデを滑り降りるほどの技術はまったく無かったのだ。僕はガチガチに固めたアルペンスキー以外のスキーには乗れなかったのだ。

 それでも、あの春の笹ヶ峰を思い出す度になぜか胸の高鳴りを覚えるのであった。誰もいない雪原にたった一本のシュプール、一人だけそっと秘密にしておきたいような幸せに満ちた喜びを知ってしまった以上、この不安定ではあるが踵を固定しないスキーを何とか乗りこなし、あちこちの雪のフィールドを訪ねてみたいと思い続けたのである。

 強い気持ちで求めていれば、何時か何処かで何かのヒントに出会うものだ。何となく買っていた自由国民社の「クロスカントリースキー」という本を再びペラペラとめくっていた時、雪の降り積もった木々の間を雪煙を巻き上げて滑っている写真が目にとまった。この本は、レースの記録や草レース案内が主な記事であり、時たま特集などで、元々興味のあった「冬の自然観察」の記事が出ていたので買い置きをしていたものだ。スキー関連の本は、あまり熱心に読んではいなかったのだが、雪原や森がキーワードになって、そのページで目が止まったのだろう。そして、これがテレマークというスキーとの出会いであった。

このスキーをやろう

 その頃はスキーが少し滑れただけで、スキーの特徴や種類、ビンディングの違いなどについての知識も無く、どうやって探そうかと途方にくれていた。ましてやテレマークスキーなんていうのは、僕はもとより近くのスキー専門店でさえも言葉すら知らなかった。
 それからは「テレマークスキー」を求めてスキー店通いをしたのだが、田舎のこともあり、店の人でもさっぱり分からず諦めかけていた。たまたまその時、店にいたメーカーの営業マンが「そのスキー、聞いたことがあるよ」「会社に帰ったら調べてみる」ということで一縷の望みが繋がれたのであった。
 「会社にテレマークスキーの在庫があった。だけど長いよー」と連絡があったのは1984年のスキーシーズンも終わりかけていた頃である。
 ようやく手にしたスキーは2メートル20センチ、道具がどうであれやってみなければ始まらない。アルペンスキーもそれ程の腕前でない僕は、リフト一本乗ってゲレンデに立ったまま途方にくれていた。唯一参考書はスティーブ・バーネット著、杉山進監修の「クロスカントリースキー”ダウンヒルテクニック”」であった。過去に一度も正しくスキーを習った事の無い僕には難解なスキー技術書を理解することはとうてい出来ない。しかし、随所に挿入されているバックカントリーの写真は美しく、何時か山岳滑降に出かけられる日を夢見て、精進が始まったのである。

これは難しすぎる、もうやめよう

 何でも糸口が見つかれば、芋蔓式に情報は入ってくるし、交友も広がる。その翌年には前年に結成された日本テレマークスキー協会に入会し、ようやく一歩を進めることになる訳だが、協会といっても誰もが「どうやって滑る?」の段階であり、手探りのテレマーク修業はまだまだ続くのである。

 その頃、練習には何時もスキーを二組持って行った。もちろん一組はアルペンスキーであり、最後の仕上げはアルペンスキーをかっ飛ばして、あまりにも進歩のないテレマークスキー練習のストレスを晴らすためだ。アルペンでリフト2本分くらい休まず滑ってもそれ程足にも負担は掛からない。しかし、テレマークではリフト一本、3回も休まなければ滑れない。「これは駄目だ。とてもツアーには使えない」「もうやめよう」と思い始めたのはテレマークを始めて3年ほどたった頃であろうか。

 そんな時だった。志賀高原の山本さん(故人)から「ノルウェーのスキー教師を2・3日預かってくれないか」と話があり、お引き受けする機会を得た。この人はターリア・ベローと言う人でアルペンのスキー教師として一冬、志賀高原で過ごし、帰国を前に志賀高原以外のスキー場にも行ってみたいと言う事での話であった。 ターリアはアルペンのスキー教師と言ってもテレマークの本場ノルウェーの人。「おはよう」と「ごちそうさま」だけのターリアと英語はまったく駄目な僕とでテレマークスキーをはいて赤倉のスキー場巡りが始まった。言葉は通じなくても意志は充分過ぎるほど通じる。

「ここ(赤倉)は、ノルウェーの風景とまったく同じだよ」「結構滑るじゃないか」と確かに言っていた、・・と思う。そう言ってくれたとしてもテレマークの本当の滑り方が分からない僕は、すでに腿の筋肉がパンパンになっていた。「もう一本行こう」なんと、そこはチャンピオンBコース。コブコブの急斜面。今までアルペンでさえもここでは上手く滑れていない。「おいおい勘弁してくれ」「・・・ん、I am アー very tired」どうやら通じたらしい。彼がコースの頂上部に姿を現した時、確かに時間が止まったような気がする。コース全体がシンと静まり、蟻の子のように斜面にへばりついていたスキーヤーの動きが全て止まった。静寂の中、深いコブの急斜面を真っ直ぐに華麗なテレマークウェーデルンでターリアだけが滑っていた。

 3年にしてようやく本物のテレマーク技術を目の当たりにすることが出来た。まさに目から鱗の出来事であった。もしあの時、ターリア・ベローが妙高に来なかったら僕は間違いなくテレマークスキーを放り投げていただろう。そして、幾度となく体験した光と山々の感動的なシーンを生涯知る機会を失っただろう。まさに百聞は一見にしかず。まだまだ頭の中での理解はできていなかったが、彼の滑りをしっかり瞼の奥底に収め、暗く長い穴から這い上がった。

踵、壊れていますよ

 当時はテレマークスキーと言っても知る人はほとんど無く、ゲレンデ以外のフィールドに興味の無い人には、とても変なスキースタイルだったのだろう。リフト乗り場で「あのー、踵が壊れているみたいですよ」と親切?に声をかけてくれる人もいて、今になれば笑い話のようなことも再三あった。
 「オイ また変なこと始めたなー」 僕は別に目立ちたいわけでも、奇を衒っている訳でもない。山に登ったり、森へ行ったりするにはこのスキーが一番歩きやすく、滑ることもできる。雪のフィールドで万能な道具であり手段だと思っている。

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 山スキーとテレマークスキーの違いをよく聞かれる。僕の考えはこうだ。
 まず始めにフィールドを表現する言葉を整理してみたい。
 雪にすっぽり埋まった民家近くの田や畑、比較的平坦な所ではクロスカントリースキーだ。急峻な山岳地形や氷河の上などでは強いエッジングができるアルペンスタイルの山スキー。雪にすっぽり埋まった民家近くの田や畑、そして裏山の雑木林から始まる山岳地帯までをバックカントリースキーと呼ぼう。そう、この広範囲なバックカントリースキーエリアこそテレマークスキーの出番なのだ。
 道具としての区別は、クロスカントリースキーは細くサイドカーブもなく、ダブルキャンバーでエッジが付けられていない。この軽快なスキーは歩いたり、走り回ったりするのには最も適したスキーであるがターンは極めて難しい。

 山スキーやテレマークスキーはずっと幅広でターンすることを重視しているのでサイドカーブもエッジも付いている。しかし、山スキーとテレマークスキーの決定的な違いは滑降時に踵を固定するかどうかである。しかし、歩く時には踵を固定していては歩けないので、山スキーは当然踵を開放することができる機構を持っている。ブーツそのものは一体化したビンディングのプレートに乗っていてつま先の兆番で踵を上げ下げしている。テレマークスキーは滑降時にも踵を固定しないので爪先だけを止めるシンプルなビンディングであり山スキーに比べてより軽快であるといえる。テレマークスキーでの歩行は、普段と変らぬ骨格の動きの歩行であるが、山スキーでは兆番を支点としての動きなので足を蹴りだすような歩き方はできず、引きずるような足の動きになってしまうことを否めない。
 山スキーを選ぶかテレマークスキーにするかは、滑降を重視するか歩行を重視するか。そして、何処を主なフィールドとするかによって決まるのではなかろうか。しかし、最近はテレマークスキーの道具や技術の進歩によって、ほとんどの山岳エリア、雪質での行動が可能になってきている。

 かれこれ20年近くたって、最近は「変なスキー」とか「踵が壊れている」とか言われなくなった。物よりも心を大切に考える時代を迎えバックカントリーへの憧れを抱きテレマークを愛好する者の数も増えている。深い森や神々の頂きに分け入る自由を謳い、その素晴らしを語りつづけた結果だろう。日本のテレマークが始まった20年前は、まさに狂ったバブル景気に突入する前夜であり、踵ではなく物質に翻弄されて「心が壊れかけていた時代」だったのではなかろうか。

テレマークなんて難しくない

 僕は1997年、ここ妙高高原でモルゲダール倶楽部という、テレマークスキーの学校を開いた。テレマークスキーの技術を教えたいというよりも、バックカントリーの素晴らしを一人でも多くの人に知ってもらいたかったし、同じ感動を共有したかったからだ。
 スキー学校を経営していて「スキーなんて上手くならなくてもいいよ」と言うのもおかしな話だが、スキーはあくまでも道具でしかないし、スキー技術はバックカントリーに入るための手段の一部にしか過ぎない。

 ハンネス・シュナイダーの言葉(注1)を借りるまでも無く、少しでも滑れるようなったら一日も早くバックカントリーに出るべきだ。バックカントリーに出るためには、最低限、長いトラバースのために斜滑降、方向を変えるためにキックターンかプルークボーゲンができれば良いのであって、巧みな回転技術は必要ではない。ツアーは練習場ではないのだから、無理をして何度も転び、いたずらに体力を消耗させるより、余裕を持って周りの景色を眺め、雪山の美しさを満喫していた方がより豊かな時間が持てるだろう。そして何時の日にか、バックカントリーの変化に富んだ雪質や地形がきっと力強く、上手なスキーヤーに育ててくれるに違いない。 テレマークスキーの滑り方は特別なものでは無い。ましてやバックカントリーツアーではアルペンスキー技術を使ってツアーするほうが余程多く、疲労も少ない。特に斜面を横切る時などは、アルペンポジションの斜滑降のほうが安全で確実だ。テレマークはいざという時のためくらいに覚えておいてもらえば大丈夫だ。

 ここで頭の中だけでも理解できるテレマークスキーの技術をちょっと伝授しておこう。
 スキーがターンするのに、アルペンターンもテレマークターンも無い。スキーが回っていくのは、たわんだスキーとスキーのサイドカーブで回るのであって、あなたがスキーの正しい位置に乗ってさえいれば、スキーは始めから回るようにできている。テレマークのスキーをはいたら足を前後に開いてちょっと膝を折った独特のテレマーク姿勢でなければターンができないなんて思い込んでいないだろうか、踵が固定されていようが、いまいがそんなことはターンと関係ない。      

 テレマークスキーは踵が固定されていないので、アルペンスキーの様に両足が揃っていては急ブレーキが掛かった時に前倒してしまう。テレマーク姿勢はこの前倒を防ぐためのリカバーの姿勢に他ならない。いわゆる後ろに引いた足は、支え棒なのだ。ここで注意してもらいたいのは、支え棒は、ただより掛けているだけの棒とは違うと言う事。体が倒れることを防ぐためにしっかりと支えている棒(足)なのだ。だから、支える必要の無いフラットな雪面や均一な雪質の時はテレマーク姿勢を取る必要は無い、ツアーの半分はアルペンで良いのだよと言う意味がお分かりだと思う。

 それにあの形、何処かで見たことがないだろうか。そう、素早く動くためにボクシングや空手の構え、ふんばったりしている時の形と同じなのだ。そして体を軟らかくリラックスさせていればスキーの正しい位置にきっと乗れるはずだ。
 何となく分かって頂けただろうか。もし、少しでもスキーをやったことがあれば、すぐに上達できる。我々はテレマークスキー技術に拘らず、楽しくツアーができるように講習を組みたてている。スキーを習いに行こうなんて構えずに、一緒に雪山を旅する友達を探しに行くくらいの軽い気持ちでスクールに参加してみたらどうだろうか。


(注1)一般的な欠点として日本のスキーヤーの90%までもが練習場で滑っている。残り10%が練習場を離れてツアーをするのではなかろうか。基本的な動作ができるようになったら一日も早く、自然の山野に出るべきだ。



テレマークスキーを始めよう

 葉を落として明るくなった広葉樹の森、落ち葉を踏みしめて陽だまりを求めて、冬の低山歩きも魅力的だ。僕も東京にいる頃はよく丹沢や奥多摩の低山に出かけたものだ。しかし、冬の間、雪の無いところを探していては地域が限られてしまう。日本は国土の51.8%が積雪地帯なのだ。

 スキーは滑るものとの思い込みから、スキーをはいてハイキングをするなど思いもよらなかった。自由に歩き回れるスキーを手に入れれば、滑ることを目的としなくても、ちょっとスキーを引っ掛けて、まさにサンダル感覚で広い雪原や森の中へ出かけ、動物の足跡を追いかけたり、写真撮影をしたり、天気がよければコーヒーを飲むためだけに出かけてもよいだろう。篭もりがちだった冬の間、この新しい試みは、いままで想像もできなかった素晴らしい世界をきっと体験させてくれるだろう。

 北八ヶ岳のフィールドは首都圏や中京圏からも近く、登りにはゴンドラも使え、麦草から白駒池をまわり、縞枯の小屋へ出てくるコースは、はじめてのバックカントリーには最高のフィールドを提供してくれる。このエリアの小屋ではレンタルのスキーも常備しているので気軽に出かけられる。

 雪原を歩いたり、森の中に入るためだけならばクロスカントリースキーでも、今、流行のスノーシューでもよいかもしれない。最近は、雪の上を歩くためのいろいろな種類の道具を売っているのでお店を覗いてみる価値はありそうだ。でも、日本の国土は山ばかり、ちょっとした斜面でも転げ回っていては楽しさが半減してしまう。スノーシューも少し雪が深くなるとラッセルにかなりてこずる。

 連続してターンなどする必要も無いが、たった一回だけもターンができれば滑ったまま方向がかえられるし立ち木をよけることもできる。そうなると、やはり野山ではテレマークスキーが万能なのかもしれない。
 最近ネイチャースキーと呼ばれるものが流行っている。しかし、フィールドも道具も技術も特別なものでは無い。単に冬の自然観察などに使うだけであり、自然の中でスキーをはくことは全てネイチャースキーなのだ。シールを貼らなくても歩き易いようにソールにステップ加工さえ施してあればよいし、ステップ加工がされていなければハーフシールを貼れば良いだけのことである。だからお店に行ってもネイチャースキーなるものは売ってはいない。
 しかし、ネイチャースキーの功績は大きい、今までスキーとは無縁であった中高年の方や女性を中心に河川敷を歩いたり、志賀高原や戸隠、日光の戦場ヶ原など雪のある自然を大いに楽しんでいる。

 最近はインタープリターが同行して、野生動物の食痕や足跡を観察したり、落葉樹の森で冬芽を観察したり、雪国の自然をテーマにしたプログラムを持っている自然学校もあり、野山のスキーを始めてみたい方には大変参加しやすくなってきた。
 比較的平坦な野山でネイチャースキーを体験された方の中から、もう少し森の奥まで行ってみたい、できれば滑ってもみたいと思いはじめるのはごく自然な成り行き、これをきっかけにしてテレマークを始める人も年々増えている。やはり、野山のスキーの行き着くところはテレマークスキーになりそうだ。

 テレマークスキーを始めようと思ったら、いきなり道具を揃えるのはよそう。今までのスキーの分類でもお分かりのように、クロスカントリースキーのツアー用、テレマークスキーとうたっていてもカービングスキーやレース用のスキー、歩くことに重点をおいたスキー、さらにネイチャースキーも混ざってかなり複雑になっている。そして、何処で何をしたいのかという目的、スキーとブーツとビンディングの組み合わせもあり、これでは山道具の専門のショップでも、相当に詳しい店員がいなければ適切なアドバイスは期待できない。まずはレンタルでスクールに入り、スキー教師に聞くのが良いだろう。しかし、残念なことにテレマークのスキー学校も革靴の受講者にレース用のブーツをはいて教えている学校もあるので、もうこれは運としか言い様が無い。

 それにしても、たった20年の間によくもこれだけ種類が増えたものだ。多少道具選びに失敗しても、野山に出られないことはない。春のうららかな日差しを浴びて、のんびりとスキーを走らせ、雪の割れた小さなせせらぎでクレソンを摘んで噛んでみよう。口いっぱいに広がるほろ苦さはバックカントリースキーとのめぐり合いをきっと後悔させないだろう。

日本はバックカントリースキーには最高のフィールドだ

essay_a.JPG火打山の山頂を目指して 日本ほどバックカントリースキーに適したところは無い。世界地図を広げてみて欲しい、新潟の緯度はサンフランシスコや地中海と変らない、緯度的には温暖な地域なのが良く分かる。しかし、冬季間、シベリアの大陸で生まれた寒気団が日本へ下がってくるには日本海を渡らなければならない。日本海は温暖な対馬海流が流れていて、尽きることも無く盛んに水蒸気を上げる。たっぷりと湿った空気を持った寒気団は上陸してすぐに背稜山脈にぶつかり、日本海側の地方に多量の降雪をもたらす。人の暮らす環境でこのように多量の降雪をもたらすところは世界でも新潟、山形を除いて類例は無い。 

 毎年毎年、こんなに沢山雪の降る国に住んでいて、しかも、その多量の雪は初夏の頃まで残り、地形的にもたおやかな山並みの続く国土にあって、バックカントリースキーをしないなんて、なんとももったいない話ではないか。
 雪国に暮らす人々はよく雪害を口にするが、雪がもたらす恩恵は計り知れない。分厚く地表を覆う雪は、多種多様な植物を寒冷な風に晒すことなく、雪解けまで守ってくれる。

私のテレマークスタイル

 20年前に始まった僕のテレマークは、アゾロの革靴と幅74ミリ、2メートル20センチのスキーだった。この20年の間に革靴は少数派になり、プラスチックブーツが圧倒的に多くなった。スキーも100ミリを超えて深いカーブを持つようになってきて、いわゆるカービングと言われているものである。そしてスキーの変化、進歩?に合わせて技術も変ってきている。
 だけど僕のテレマークスキーのスタイルは変らない。しなやかな革靴の感触と開放感、なにものにも縛られない、最初の感動をこれかもずっと大切にしていこう。軽快で自由であるテレマークスキーを走らせることが嬉しいのだ。

 眩い雪原と一人だけのバックカントリー、深い森に包まれて至福の時の感動を永遠にもち続けたいのだ。
 シーカヤックを始めた頃、今まで遠い彼方であった島や対岸が自分の力だけでも行ける身近な存在になった。そして、僕は同じようにテレマークスキーを使って、雪に閉ざされた山深い里や小さな峠道を越えて見知らぬ土地へ、人の温もりを求めて旅を続けたいと思っている。